2008年12月21日
浦島悦子&宮城康博 トークライブ
◆宮城康博さん
プロフィール:1959年沖縄県名護市に生まれる。80年代を東京で過ごし、冷戦崩壊後Uターン。やんばる地方で行政の地域計画策定等に携わる。97年、住民投票運動に関わり、98年以降名護市議会議員を3期8年つとめる。現在沖縄県宜野湾市在住。08年10月、「沖縄ラプソディ -<地方自治の本旨>を求めて」(御茶の水書房)を上梓。

◇ ◇
「沖縄ラプソディ」の話をしますが、編集者とどんな本をつくろうかとディスカッションしながら作ってきました。
◎書きはじめるまで
市会議員を8年間やってきて、非常に熱心に自治体の法務や財政について勉強してきました。基地を受け入れた行政行為のどこかに瑕疵を見出して、公的な領域の議論で基地受入を止めさせたいと思っていたんですね。
そういう経験を踏まえて、議会というのはどういう場なのか、議会でどんなことがあったのかというエピソード等を書こうかとも思いました。議員になったら何でも言いたい放題ではないんですね。議会というのは何を議決するのかが法令で決められていまして、条例を決めるとか、予算を決めるとか、お金を使うこと。そのお金で公共事業をしたりする。そのお金を使う契約に対して、議会が決定をしたりする。というような仕事が、日常の議会でどんな風にやられているのか、なかなか傍から見えないので、面白おかしく書けたら、なんてことも編集者と話していました。
基本的には、沖縄・名護における(新基地建設問題の)この10年を振り返るみたいなお話で本をつくろうとはじめたんですけど、この10年を振り返ってみて、何が問題だったのか、なんでこんな風になったんだろうと考えたときに、どうしても引っ掛かっている問題があって、そして、それについては書く力がないのでと、僕は最初の頃は、御茶の水書房の編集者から逃げ回っていました。それが何かというと、実は97年に、住民投票をやったときに、私は政治的な、労働組合でもないし、一坪反戦地主でもないし、まあ普通のその辺にいるちゃらちゃらした兄ちゃんだった。そういう私が住民投票に立ち上がっていくわけですが、そのときに私が、この人たちとだったら一緒にやれると思ったのは、そのとき一番身近にいた女性たちの存在でした。普通の主婦だったり、普通のOL(OLといっても名護だとOLなんてものでもなくて、土建屋の臨時雇いの現場事務)だったりする女性たち。そういう人たちが、「これはいくらなんでも駄目だ」ということで、住民投票をやらなければと立ち上がってくる。ほんとに私の動きの一番身近な人たちでした。
それが、市民投票直後に市長選挙という形になっていくと、いわゆる労組や革新の方々、選挙のプロという人たちが出てきて、女性たちは女性部会みたいなものをつくって女性票をかき集めるために何らかの工夫をして動きをする役割にされていく。だから、おもしろくなかったりもするし、そういう中でどんどん、住民投票のときに私の周りにいた人々が、選挙になるとみえなくなっていく。結局、8年、10年経ってみると、あのときいた女性たちの動きというのは、いまもう、ほぼみえなくなっている。どうして、こんな風になってしまったんだろう。あのときのあのエネルギーを(時代の流れで、あのように熱くなった、いろいろ偶然の要素もあってそうなるんですが)、あの核にあった部分というのを、われわれは掴みあぐねている。運動の前面からなぜ生活者がみえなくなったのか。そこを、掴みあぐねているもんだから、今日まで、いまだに混迷している。僕は何も論理的に、ロジックとしてそれを語れませんけども、そういうことをずっと思い続けていて、それが私の中ではなかなかスッと出て来ないところがあって、書き切れないという思いがありました。
◎子どもたちに語るべきことから書きはじめる
それで、3ヶ月かかってA4一枚も書けずに、もう本出すの止めようと逃げ回ったりもしたんですけど、それじゃ駄目だと言われて、じゃあどうしようとゴチャゴチャ考えて、苦肉の策で私が出した案が、とりあえず、子どもたちに…彼らが生まれた(筆者の長女・長男は95・96年生の年子である)直後だったんですよ、住民投票やったのは。そのとき、そしてその後…名護で何が起きたのか、そのことを語らなくちゃいけない。子どもたちに分かるように説明しようと考え。うちの子どもも、中学校1年、小学校6年ですから、その子たちにちゃんと語れるかどうか。じゃあ、子どもたちに語るだけじゃなくて、名護で起きた事柄を、名護以外の沖縄の人たちに、「あれは名護というローカルなことだ、ヤンバルの事だ」と思っているかもしれないから、だとしたら、沖縄の人々みんなに語ろう、沖縄県民に、この間起きていることは沖縄がこうなったということなんだと語れるんじゃないかと考え。で、そうすると、じゃあ、「沖縄、大変ねえ」と言われかねない。ヤマトの人や世界の人たちとかに。実は沖縄の問題ではなくて、日本の問題であり、同時に、国家と地域というものがどう係わり合いをもってどうなっていくのか、という事柄で、世界の問題なんだと。で、同時に、沖縄で起きていることは日本でも動いていて、日本で動いていることは地球上で動いていて、それがグローバリズムという形で一色に塗り潰していくような世界がつくられようとしている、それについていろんな地域で抵抗している人たちももちろんいるわけで、そういう事柄と、もしかして名護で起きている事柄がひとつづきかもしれない、ぐらいに思い、まあ飛躍しまくって。そんなもんをつくれるんじゃないか、という風に考え、書き出していった次第です。
で、実際に、その柱でいこうということで、この本は3部構成になっていて、第一章は子どもたちに、何が起こったのか、今の沖縄で何が起きているのかを語る。第二章が、沖縄の人たちに、沖縄でこの10年来起きたのは、こういうことではないか。これは名護の問題というわけにはいかないんだよということを語る。で、三章目で、沖縄以外の(日本本土の世界の)方々に、沖縄の問題ではない、沖縄問題などというものはどこにもないんだということを語る。で、本書のタイトルをどうしようかってんで、「沖縄ラプソディ」という書名と「地方自治の本旨を求めて」というサブタイトルは、最後の最後に出てきた。

◎分りやすく、どこからでも読めるように。
狙いとしては、できるだけ、ちゃんと読んでくれたら分かるように書こうと。それと同時に、分かりやすく書こうと腐心しないこと。これは僕自身に課した課題ですけど、分かりやすく書こうと思うと、難しい問題をやたら単純化して書くとか、いろんなことをするんですけど、まあ子どもにはこれぐらいでいいだろうとかね、それ僕、嘘だと思うんですよ。子どもに分かりやすくなどと言って、自分が分からないもんだから、単純化して子ども(他者)に投げる。この場合、私という人間を介していて、私の中で単純化するという嘘を書いています。私を騙している側面もある。世界はそんなに簡単に単純化できるものじゃないんだと。世界は読み込まれるのを待っている非常に複雑なテクストですから、それをどう読んだんだということを真摯に書く。ちゃんと読んでくれたら分かるようにというのは何かというと、自分でもわけの分からない言葉は使わないでおこうというのを自分に課しました。であるから、この本は解ではなく問いであふれかえっている。困ったものになっている。
もう一つ、課したというか狙いとして考えたのは、三章立てになってるんですけど、各章にそれぞれ4つか5つぐらいのエッセイ(論文ではなく。エッセイにしとけば、何か許されるというか(笑)。それぐらいにしとかないと、あんまりギチギチにしたら書けなくなってしまう。まあ、不可抗力でそうなってしまうんですけど。)で、それぞれのエッセイは、単独でも読めるものにしました。例えば、グローバリズムに興味がある方なら、三章のここを読んでみようとか、自治体の財政問題に興味のある方は二章のこの節を読んでみようとか、それで十分読んでもらえるようなものにしよう、というアイデアを持ってこの本をつくりました。今のところ、感想としては、意味が分からないというのはいただいてないので、そのように読んでもらえるようにはなっているようです。
◎逆格差論のこと
僕は原稿をつくるのは好きなんですけど朗読するのが嫌で、しゃべるときも箇条書きのメモぐらいしかつくらなくて、書くときには考えながら書くので、結論があるようには書いてなくて、この本も案の定そうなってしまって、一章、二章、三章それぞれ思い入れありながら、今日は三章のあれ、今日は二章のという風にしながら1年もかかってずるずるやってきました。そのときはまだ、この本がどこに出ようとしているのかが分かっていませんでした。それが分かったのは、ほんとに最後のギリギリのころでした。
編集者の方に苦労してもらって、議員をしてたときに新報やタイムスに投稿したり、請われて4回連載のまとまったものを書いたりしてきたんですけど、そういう諸々をまとめてもらいゲラまで上がったあとです。もう、宮城康博がこの数年間書いてきたものの集大成みたいになってきたんですけど、僕は途中からちょっと思い悩んでしまって、実はこの本の本文の中で一番最後に書いたのは、岸本建男さんの話で、「逆格差論は死なず」(本では二章の最初にあるんですけど、書いた順番では一番最後)というエッセイですが、それを書いてやっと自分はこの本で何をしようとしていたのかが分かった気がしました。実は、自治のあり方をどう考えるのかというのが私の最大のテーマだったんですね。私は名護市が大好きなんですが、どこが大好きだという中に、「逆格差論」をやった名護市、あの市庁舎をつくった名護市というのが、自分の中に大切な要素として、これは自分が生まれたところがそういう場所なんだというのが誇りでもありましたし、そういうことがあって、岸本建男さんともお友達になっていろんな活動を一緒にしてきたんですけど…。
「逆格差論」というのは、簡単に言うと、1970年に1町4村が合併して名護市になるんですけど、72年に復帰することが既定スケジュールとしてありますから、日本政府は沖縄に対して何をしなければいけないかというので、長い年月ほったらかしてきたので、お金をかけて振興開発をしなくちゃいけない、格差是正をしなくちゃいけないというので、盛り上がっていた。沖縄も盛り上がっているし、国も盛り上がっている、民衆も盛り上げられているような状況だった。しかし、そうは言うが、この復帰は裏切られた。基地のない沖縄をというのが、当時の屋良朝苗主席が、復帰に当たって基地をなくしてくれという建議書を持って国会に向かい羽田に到着したときに、衆議院の特別委員会で強行採決される。沖縄の最後の声は届かないままに沖縄の復帰が国会で決められてしまう状況があった。そんな中で、70年に名護市が合併してどんな街にしていくんだというときに、いわゆる「格差是正」「開発信仰」ではない、と。本土に追いつけ、追い越せではなくて、名護市やヤンバルが持っている自然や暮らしの豊かさがある、と。経済の成長で失うものも多くあるのではないか。そうではなくて、自分たちの足元にあるものを大切に積み上げていって、豊かな暮らしをつくれるんではないのか。格差があるんだとしたら、経済の成長を追いかけることで、自然を破壊して、水俣病のようなものをつくり出してしまって、とてもじゃないが大変な状態になっている日本本土と比べてみたら、名護市、ヤンバルの方が豊かじゃないのか。格差は逆だと。それが「逆格差論」だったんですね。沖縄と本土の格差は実は逆なんじゃないか、精神の豊かさ、自然の豊かさで見たら沖縄の方が勝っているぞというのが「逆格差論」のテーゼの中にあるわけですが、そんな風なことをやっている名護市は相当、僕は面白いと思っていた。で、そのことに深くかかわって、名護市の職員にまでなってしまったのが、岸本建男氏なわけです。で、編集者に、建男さんのことを一言書いてくれないかと言われて、「逆格差論は死なず」という原稿を書いたわけです。
◎地方自治の本旨を求めて
で、私がこの本でやりたいと思ったのは、もう一度、地域の自治をどう積み戻せるのか。実は本の中でも端々で書いてますけど、96年までずっと名護市や北部広域市町村圏など役所と付き合って仕事をしてきて、その計画を全部なげうって、反対運動の「雄」みたいに思われて、まあその役割を引き受けて、選挙などとてもじゃないが僕の生涯の中にあるとは思ってなかったような事柄まで引き受けて今日まで来たわけですけど、何をしたかったのか。私、実は東村の総合計画なんかをつくったりとか街づくり等などについてはある種、仕事としてもやってきたこともあって、私がやりたかったのは、名護市の街づくりだと。街づくりのあり方として、こんな基地建設を引き受けて、基地建設による振興策とかいろんなもので街づくりなんてできるはずがない。私が勉強したり、80年代の時代の知見で見知ってきたことで言うと、原発をつくるところには、つくるときに特別の振興策、特別の予算が出ます。大きなアメとして受け入れるわけですけど、実は原発というのは10年も20年も経つと減価償却してしまいます。基地は償却しないんですよ。基地はある限り金は出続けるわけですが、原発は10年経つとその施設は減価償却してゼロになる。そうすると、その受け入れた自治体に金が入らなくなる。それで、何が起きるか。1号機は嫌々受け入れたけれど、2号機は誘致するわけです自治体は。これが振興策のあり方なんです。名護市が基地を受け入れて、基地とともに共生した未来なんてつくれるはずがない。これはトンデモ話ではなくて、人間の経験知というんですかね、集団的なね、この日本社会が持っている経験知ですよ。そんな事柄をやっちゃいけないと、僕は思っていますし、基地を受け入れた見返りの資金=振興策で街づくりを進めていく、いわゆる功利主義的に考えることは間違いだと思う。今でもそう思う。結局、そこです。街づくりです。どんな風にもう一度、「逆格差論」のようなあり方を沖縄が取り戻すことができるのか、つくり出す事ができるのか、たぶんそこしか出口はないはずなんだ。
私は97年から10数年、ほんとに人生を翻弄されましたけど、出口はそこしかないと確信している。もう一度、「逆格差論」のようなあり方を、本気で自分たちのものとして、地域づくりをしていかなくちゃいけない。自治のあり方を手放さないものにしていかなければ、沖縄は成り立たない。
市民投票の結果を、実際の行政の意思決定に反映できないのは自治ではない。単純なことで、市民投票はアンケートではなく主権者の意思決定なのだから。そのことにこだわり続けて、10年間を振り返り現在をみつめているのが「沖縄ラプソディ」なんだと思います。
ずっと沖縄は基地に翻弄されてきて、最近ではそんな議論も、もう議論にもならないほどですけど、1960年代から70年代にかけては、いわゆる自民党の方々、今でいう土建屋さんたち、保守系の方々は復帰反対だった。なぜなら、米軍の施政権下にあった方が、お金も高いし、復帰したらイモとはだしになると。復帰したら、またイモを食うような生活、はだしの生活になると、保守系の連中は反対していたんです。今となったら、逆ですよね。本土、日本政府の言うとおりにしてると我々は大変なことになっちゃうぞというのを、復帰の頃は保守系の人が言っていたんですよ。今は逆になっている。もう一度、ほんとに自治のあり方をどう取り戻すのかというのが、私たちにとって非常に重要な課題だろうと思っていて、最後の最後に、この本のサブタイトルを「<地方自治の本旨>を求めて」としました。

◎自治を考えるための資料
この本に付録が2つあって、一つは、「炭鉱のカナリアの歌声」というもので、これは島田懇談会事業とはどういうものかと。1995年当時、革新の方々も入った検討会をつくり進められていった振興事業。島田懇談会事業というのは何かというと、まあ宣撫工作みたいなもんなんですけど、公共事業というのは法律に則ってやるけど、島田懇談会事業は非公共事業なので法律に則らない、何やってもいいよという。これが今日、いろんな形で続いていますけど、何やってもいいよという非公共事業の嚆矢というか最初に出てきたのが島田懇事業で、これが自治体の自治とか、地域の自治とか、自治についての考え方を破壊する。自治体の仕事が(その成果の可否が)市場の手に委ねられる、自治がなくなるというのを雑誌に書いたのを再録した。
もう一つは、名護市の総合計画、先ほど言った「逆格差論」。72年に施政権が返還され、日本の国家の一員として、総合計画をどうつくるかということで、名護市も始めるんですが、その中に「逆格差論」があって、本土に追いつけ、追い越せでなく、格差は逆だというのがある。その総合計画の基本構想の第一章、第二章が、逆格差論とはどういうことなのかと書いている。それを付録として入れている。
先に話した、ゲラまで上がっていた、既出の私の原稿をまとめた付録はすべてボツにして、その二つを挿入してこの本はやっと出来上がりました。
◆浦島悦子さん
プロフィール:1948年、鹿児島県川内市に生まれる。90年から沖縄に住み、文筆活動を続ける。91年、「闇の彼方へ」で新沖縄文学賞佳作。「豊かなシマに基地はいらない」「辺野古 海のたたかい」などの著書がある。08年8月、「島の未来へ 沖縄・名護からのたより」(インパクト出版会)を刊行。

◇ ◇
◎辺野古三部作
私が沖縄に来たのが90年。康博さんは80年代に東京にいたそうですけど、私は70年代に7年ぐらい東京にいたんですね。この本(「島の未来へ」)を出せるようになったのは、インパクションという雑誌をやっている社長兼小使いみたいな人と、東京にいるころ、私も超零細な月刊誌の編集をやっていて、ある集会でたまたま隣同士で本を売っていたという関係で知り合いになりまして、彼はずっとそのころから30年ぐらい雑誌をつくり続け、隔月刊で自転車操業で。
で、この本の前、95年から、まあ辺野古三部作とか言ったりしてるんですけど、ちょうどそのインパクションに書いた連載を本にして3冊目なんですけど、一番最初は、95年の少女暴行事件に対する抗議集会がありましたね。大きな大会の前に、女性たちの集会があって、それに参加したあたりから本が始まっている。95年から2001年までがそれ(「豊かなシマに基地はいらない」)。この本の三分の一から後は、私が名護に住むようになってからの話。その後、2冊目(「辺野古 海のたたかい」)は2005年の夏に出したんですけど、ちょうどそのころ、私たちは辺野古の海上のやぐらに座り込んで、そこに防衛施設局の職員や作業をする人たちが来て、作業をさせろ、させないというのをやっていたのが中心。それと、康博さんたちと「市民アセスなご」というのをやっていて、環境アセスに対して市民の側からものを言っていこうというか、私たちの中では今のアセスは本当に環境に対する影響を評価するのにふさわしくないもので、市民の側からいいやり方を提案していこうというもので。そういうのも入れながら書いたのが2冊目ですね。 で、その後がこれ(「島の未来へ」)。
◎普天間-名護
私が名護に住み始めたのは、98年の4月から。名護市民投票のときには、私はまだ外からの応援する立場としてかかわりました。ちょうどそのころ、宜野湾の佐喜真美術館で働いていたんですね。佐喜真美術館はご承知のように普天間基地のところにあって、その普天間基地が返還される。でも、それが名護に行くらしいということで、宜野湾市の女性たちを中心にカマドゥーグァーたちの集いということで、自分たちはずっと普天間基地に苦しめられてきたけど、それを名護に押し付けるのは嫌だと。普天間がどんなひどい基地か、こんなの受け入れたらいけませんよというのを名護の人たちに伝えようということで、私も宜野湾で働いていたので、一緒に名護に通うようになったのが基地問題とのかかわりの初めなんですけど、もちろんその前に少女の事件があって、ひとごとではいられないというのはあったんですけど。
私自身は、いろいろありまして、沖縄に来て、そのときは基地問題はあまり意識してなかったんですけど、やっぱり暮らしていく中で、最初に住んだのが沖縄市で、ほんとに基地のすぐそばで。あと、子どもたち、自分の子どもが育つ環境が、とても荒れてるなというのを感じて。やっぱりこういう環境がどうしてこうなったんだろうと考えると、どうしても基地を避けて通れないというところで。
名護に行くようになって、ちょうど市民投票推進協議会ができて、最初に名護の市民会館で大きな集会があったんですけど、そのときにすごく感動したのが、まあ基地反対はもちろんだけど、さっき康博さんが言った「いい街をつくろう」というのが大きな柱としてあったというのに、とっても感動したんですね。やっぱり、名護の人たちが、ほんとに新しい歴史をここから開いていくんだなというのが、最初からそういうのがあったんですけど、すごいびっくりしました。
◎「初発」のエネルギー
で、そのまま、名護にかかわるようになって。名護市民投票の前に、97年1月に、辺野古の「命を守る会」ができて、97年の10月に、今私が所属している「二見以北10区の会」ができた。基地の地元とされる東海岸に2つの住民団体ができて、住民の立場から「基地はいらない」という声を挙げ始めたんですけど、そのときにたまたま、カマドゥーグァーたちの集いと、「二見以北10区の会」の女性部と言ってましたけど「ジャンヌ会」という、ジャンヌ・ダルクのジャンヌで、それからジュゴンのことをジャンというのでそれをかけて「ジャンヌ会」という会があって、それが一緒になって、名護の女性と宜野湾の女性が二人一組になって一戸ずつ回った。宜野湾の人は基地の実態を話して、こんなのを受け入れたら大変なことになりますよ、というのをやったんですね。今まで政治活動とか市民活動とか何もやったことがない人たちが、とにかく基地が来たら大変なことになるということで、市民投票にさえ勝てば基地は追い返せるというその一心で、その間、ほんとに子どもたちにもインスタントラーメン食べさせて、お父さんもお母さんも地域を回るというような、市民投票までの我慢だということで我慢させた。
そういう中で、夜遅く、召集がかかったんですよ。名護の、ヤンバルの人たちから。「助けてくれ」というほんとに悲鳴のような声で、私たちみんなに電話がかかってきて、それで夜から駆けつけたんですけど。それまでわりと感触がよかったと。ところが、市民投票をしてほしくない人たちからの反撃がすごくて、もう行く先々ですごい怒鳴りつけられたり、まったく空気が変わってきたと。このままでは負けるんじゃないかと、何とか来てほしい、ということで、そのころは瀬嵩の真志喜トミさん宅の二階で、自分たちがどんなひどい対応をされたかというのをジャンヌ会の女性たちが涙ながらに語るのを聞いて、明日からどうしようかという話をしたのを覚えています。
でも、そんなこんなでも、私はまだそのとき名護市民ではなかったけど、市民投票に勝ったというのがほんとに嬉しかったです。ところが、3日後に受け入れ表明ということで。あの落差、ほんとに天国から地獄に落とされたというあの落差というのは、今までずっと尾を引いていると私は思っています。私はあのときに、もちろん東海岸だけじゃなくて名護の西側の人たちも含めて、ほんとにみんな血と汗と涙の結晶だと思うんですけど、そういう中で一人ひとりが頑張ったと思うんですけど、その人たちがどんな思いで今の状況を感じながら、思いながら暮らしているのかな、っていうのがずっと気になっているんですね。だから、その人たちが話してくれるか分からないんだけれど、もし機会があれば聞き歩きておきたいなという思いがあります。
◎名護に暮らして
で、私は、その前から、沖縄に来る頃から山歩きをしていまして、というのはその前に奄美大島でとても田舎というか陸の孤島みたいな中に住んでいたので、小さい子ども、赤ん坊を連れてきて、女手一つで育てていくには、ほんとは田舎に住みたいんだけど、仕事がないというのもあって中部に住んだんですけど、とても街の暮らしが身に馴染まないということがあって、たまたま山歩きに誘われてはまってしまったんですけど、ヤンバルの森をあちこち歩くようになると、あまりにも森が壊されていくのを目の当たりにして、どうしても黙って見ていられないということで、同じような思いの人たちと山原の山を守る連絡会というのをつくって、事務局をやっていました。
で、どうしてもヤンバルに住みたいというのがあったんですけど、自然保護団体の事務局というのが新聞に載ったりしてくると、嫌がられるんですね。あんたが来たら開発できなくなると。そういう中で、市民投票のときに知り合った東恩納琢磨さんが家を探してくれて、それで10区に引っ越してきたのが98年3月で。ちょうど市長選で岸本さんが市長になった後。あのときはまだ、岸本さんは、基地問題は市民投票で決着がついてるから、と言ってたし、まだそんなに大きな動きはなかったので、私はわりとのんびりとした気持ちで、「ヤンバルでのんびり小説でも書きたいな」とか思って引っ越してきたんですけど、住んでみるといろいろなことがあって、結局、市民投票のときの盛り上がりというのが、自分たちがあれだけ頑張って、勝ったのに、裏切られて、残念というかな。そこから一人減り、二人減りして。
で、二見以北10区には97年ぐらいから、地域振興補助金というのが下りるようになって。10の集落があるんですけど、そこ全体で6000万円。毎年ね。名護市を通して支給なんですけど、人口に応じてスライドされて、私がいる三原という集落は少し人口が多いので、年間840~850万円もらってるんですけど、それが部落の会計に入って、部落のいろんな行事とか役員の手当てとか、自由に使っていいお金ですから、使われているんですね。で、やっぱりそういうものが入ってくるとか、公民館が防衛庁予算でどんどん新しくなるとか、あるいは陳情とか要望とが、私の地域はどんどん過疎が進んでいるにもかかわらず、病院もなかったんですけど、ずっと要求してもかなわなかったのが、防衛庁予算でできるとかで。当初、反対運動の先頭に立っていた区長さんたちが全部引いていく中で、だんだん10区の会の活動も下火になっていきました。まだでも、最初の本(「豊かな島に…」)の頃は、住民運動の初々しさというかな、みんなが生き生きと活動していた頃の残り香がまだあって、私、この本が自分の本だけどすごく好きなんですね。そういう住民運動のほんとに初期の頃というか、みんなが生き生きと自発的に動いていたときの感じがまだ残っていて。でも、だんだん人がいなくなって、結局、私みたいなよそ者がいま共同代表やっていますけど。

◎私の書き方
私が連載を書き続けてきたというのは、一つには、その出版社が、書きたいものを書かせてくれるというのと、たまったら本にしてくれるので。で、私の文章というのは、みんな超主観的というか。運動にかかわったりすると、何かの報告を書くとかいうときに、客観的に書かないといけないみたいなプレッシャーがあって、それこそ世界情勢からじゃないけど、そう書かないといけない場合もあるんですけど、ほんとに自分の肌で感じたこと、肌で思ったことをそのまま書くというのが私は自分の性にあっているので、そういう風に書かせてくれるところだったので続けられたんですけど、ただやっぱり、どうしても、誰からも強制されたわけではないんですけど、運動の記録みたいな感じになってしまって。
「辺野古」と言われると、私たちは抵抗があるんですね。自分が住んでいるところは辺野古じゃないし、辺野古というのは隣の地域であって、うちの地域だと思ってないので。出版社の人が言ってたけど、「辺野古っていうのは、誰も分からない。これ、読めないよ」って(笑)。
いまもまだ連載を続けているんですけど、いまは連載の体裁を変えて、運動の報告は、もう詰まらないというか私自身がいま運動にどっぷりはまってなくていろんなことをやってるので。結局、私は自分の体験したことしか書けない人なので、もし次もやるとしたらだいぶ違うものを。もちろん基地の問題も、自分の地域の問題というか、基地問題というのはすべてにかかってきていると思っています。それは沖縄で生活している人には普通のことだと思うんですけど、とくに私たちのように問題が降りかかってきている地域というのは、いつもなんというか、基地問題というのは厚い雲のようにずっと頭の上を全部覆っていて、その下で経済があったり、政治があったり、文化があったり、いろいろしてるって感じで、すべてを歪めているという感じがすごくひしひしとしますね。
で、いま私は自分の住んでいる部落の、ものすごい独裁というかヒトラーみたいな体制があって、それもやっぱりそういう風に基地絡みのお金によって歪めているというのがあるし、無意識のうちに、それを受けている人々の精神まで歪めてきているなというのを、うまく表現できないんだけど、なにかすごく肌で感じるんですね。だから、基地被害っていろんな被害があるんだけど、それが一番大きいというか深刻じゃないかと思う。だから、もし基地がなくなった場合、そこから立ち直るというのは、とても時間がかかるんだろうなとは思います。ただ、救いは、やっぱりこれではいけないよねと思う人たちも増えてきているということがあって。
◎「運動」について
運動というのは、生き物だと思うんですね。生まれて、成長して、年とって、死んでいくというのは人間と一緒。やっぱり生まれて成長していく場面というのはほんとに生き生きしてるし、見てても楽しいというのがあるんですけど、それがだんだんいろんな人たちが入ってきたり、またいろんなあの、趣味の運動ならそんなことはないんだけど、ある意味、基地問題というのは国策と闘っているという側面があるので、お金による誘惑とかいろんなのが来て、そういう中でどうしても、いろんな形で歪みも出てくるし、だから病気にもなるし怪我もするしという中で、本来の初心と全然違うところに行ってしまうというのは、私はそれは悪いとかいいとかいうことではなくて、もちろん気がつく中でそれなりに話し合ったり、最初から気がついた人もいたりということはあるんだけど、それでもなかなか処理できないというのがあって、だんだん怪我や病気がひどくなっていくというのは、私はそれは自然なこと、と思うようになりました(笑)。今はね、だいぶ年をとったということもあって、もう10何年も経ってきたら、そういう風に思わないとやっていけないということもあるんだけど。だから、今も、外からどう思われているか分からないですけど、辺野古で環境影響調査が行われていて、それに対する阻止行動とか抗議行動とか続いてますけど、いろんな矛盾がいっぱい噴き出しています。その中で、やっぱりおかしいじゃないかという声も挙がったりするんだけど、組織というか労働組合とか政党の人たちもずっとかかわって来てるし、それから個人でかかわってくる人たちの間の軋轢というかな、食い違いみないなものは常にあって、今もあるんですけど、でもやっぱり、そういうのがありつつ、まあ一応話し合える場がある。それは個人の人たちが、今まで運動を続けるためには、少しぐらいのことには目をつぶってリーダーに従わなければいけない、という風にやってきたのが、もうそれでは立ち行かない、やっぱりおかしいと、自分たちは道具ではないんだよということをきちっと言い始めたのは、私はとてもいいことだと思います。
私たちは、いろんな体験をして、自分は自分なりに頑張って、自分は地面を這いずる虫みたいなものだと思っているんですけど、そういう中で蓄積していくことはあるし、私は自分が体験したことを記録を残すことによって、次の世代に、良かったことも悪かったことも学んで、そこからもし得るものがあれば吸収してくれるだろうし、こういうことはやってはいけないよとか、学んでくれればすごくよくて。
いま市民投票からやってきた人たちは、年もとって頭も固くなって、この人たちを変えようと思ってもすごくやっぱり時間がかかるから(笑)、だから、この人たちはもう終わり、というか役割は終わり。で、次の人たちに何を託すかということじゃないかな、と最近思うんですね。だから、そのためにも、自分たちのよかったことも、間違いも含めて、残していくというのが大事だと思うし、それぐらいが私の役割かなと思うんです。
報告:佐藤拓
プロフィール:1959年沖縄県名護市に生まれる。80年代を東京で過ごし、冷戦崩壊後Uターン。やんばる地方で行政の地域計画策定等に携わる。97年、住民投票運動に関わり、98年以降名護市議会議員を3期8年つとめる。現在沖縄県宜野湾市在住。08年10月、「沖縄ラプソディ -<地方自治の本旨>を求めて」(御茶の水書房)を上梓。

◇ ◇
「沖縄ラプソディ」の話をしますが、編集者とどんな本をつくろうかとディスカッションしながら作ってきました。
◎書きはじめるまで
市会議員を8年間やってきて、非常に熱心に自治体の法務や財政について勉強してきました。基地を受け入れた行政行為のどこかに瑕疵を見出して、公的な領域の議論で基地受入を止めさせたいと思っていたんですね。
そういう経験を踏まえて、議会というのはどういう場なのか、議会でどんなことがあったのかというエピソード等を書こうかとも思いました。議員になったら何でも言いたい放題ではないんですね。議会というのは何を議決するのかが法令で決められていまして、条例を決めるとか、予算を決めるとか、お金を使うこと。そのお金で公共事業をしたりする。そのお金を使う契約に対して、議会が決定をしたりする。というような仕事が、日常の議会でどんな風にやられているのか、なかなか傍から見えないので、面白おかしく書けたら、なんてことも編集者と話していました。
基本的には、沖縄・名護における(新基地建設問題の)この10年を振り返るみたいなお話で本をつくろうとはじめたんですけど、この10年を振り返ってみて、何が問題だったのか、なんでこんな風になったんだろうと考えたときに、どうしても引っ掛かっている問題があって、そして、それについては書く力がないのでと、僕は最初の頃は、御茶の水書房の編集者から逃げ回っていました。それが何かというと、実は97年に、住民投票をやったときに、私は政治的な、労働組合でもないし、一坪反戦地主でもないし、まあ普通のその辺にいるちゃらちゃらした兄ちゃんだった。そういう私が住民投票に立ち上がっていくわけですが、そのときに私が、この人たちとだったら一緒にやれると思ったのは、そのとき一番身近にいた女性たちの存在でした。普通の主婦だったり、普通のOL(OLといっても名護だとOLなんてものでもなくて、土建屋の臨時雇いの現場事務)だったりする女性たち。そういう人たちが、「これはいくらなんでも駄目だ」ということで、住民投票をやらなければと立ち上がってくる。ほんとに私の動きの一番身近な人たちでした。
それが、市民投票直後に市長選挙という形になっていくと、いわゆる労組や革新の方々、選挙のプロという人たちが出てきて、女性たちは女性部会みたいなものをつくって女性票をかき集めるために何らかの工夫をして動きをする役割にされていく。だから、おもしろくなかったりもするし、そういう中でどんどん、住民投票のときに私の周りにいた人々が、選挙になるとみえなくなっていく。結局、8年、10年経ってみると、あのときいた女性たちの動きというのは、いまもう、ほぼみえなくなっている。どうして、こんな風になってしまったんだろう。あのときのあのエネルギーを(時代の流れで、あのように熱くなった、いろいろ偶然の要素もあってそうなるんですが)、あの核にあった部分というのを、われわれは掴みあぐねている。運動の前面からなぜ生活者がみえなくなったのか。そこを、掴みあぐねているもんだから、今日まで、いまだに混迷している。僕は何も論理的に、ロジックとしてそれを語れませんけども、そういうことをずっと思い続けていて、それが私の中ではなかなかスッと出て来ないところがあって、書き切れないという思いがありました。
◎子どもたちに語るべきことから書きはじめる
それで、3ヶ月かかってA4一枚も書けずに、もう本出すの止めようと逃げ回ったりもしたんですけど、それじゃ駄目だと言われて、じゃあどうしようとゴチャゴチャ考えて、苦肉の策で私が出した案が、とりあえず、子どもたちに…彼らが生まれた(筆者の長女・長男は95・96年生の年子である)直後だったんですよ、住民投票やったのは。そのとき、そしてその後…名護で何が起きたのか、そのことを語らなくちゃいけない。子どもたちに分かるように説明しようと考え。うちの子どもも、中学校1年、小学校6年ですから、その子たちにちゃんと語れるかどうか。じゃあ、子どもたちに語るだけじゃなくて、名護で起きた事柄を、名護以外の沖縄の人たちに、「あれは名護というローカルなことだ、ヤンバルの事だ」と思っているかもしれないから、だとしたら、沖縄の人々みんなに語ろう、沖縄県民に、この間起きていることは沖縄がこうなったということなんだと語れるんじゃないかと考え。で、そうすると、じゃあ、「沖縄、大変ねえ」と言われかねない。ヤマトの人や世界の人たちとかに。実は沖縄の問題ではなくて、日本の問題であり、同時に、国家と地域というものがどう係わり合いをもってどうなっていくのか、という事柄で、世界の問題なんだと。で、同時に、沖縄で起きていることは日本でも動いていて、日本で動いていることは地球上で動いていて、それがグローバリズムという形で一色に塗り潰していくような世界がつくられようとしている、それについていろんな地域で抵抗している人たちももちろんいるわけで、そういう事柄と、もしかして名護で起きている事柄がひとつづきかもしれない、ぐらいに思い、まあ飛躍しまくって。そんなもんをつくれるんじゃないか、という風に考え、書き出していった次第です。
で、実際に、その柱でいこうということで、この本は3部構成になっていて、第一章は子どもたちに、何が起こったのか、今の沖縄で何が起きているのかを語る。第二章が、沖縄の人たちに、沖縄でこの10年来起きたのは、こういうことではないか。これは名護の問題というわけにはいかないんだよということを語る。で、三章目で、沖縄以外の(日本本土の世界の)方々に、沖縄の問題ではない、沖縄問題などというものはどこにもないんだということを語る。で、本書のタイトルをどうしようかってんで、「沖縄ラプソディ」という書名と「地方自治の本旨を求めて」というサブタイトルは、最後の最後に出てきた。

◎分りやすく、どこからでも読めるように。
狙いとしては、できるだけ、ちゃんと読んでくれたら分かるように書こうと。それと同時に、分かりやすく書こうと腐心しないこと。これは僕自身に課した課題ですけど、分かりやすく書こうと思うと、難しい問題をやたら単純化して書くとか、いろんなことをするんですけど、まあ子どもにはこれぐらいでいいだろうとかね、それ僕、嘘だと思うんですよ。子どもに分かりやすくなどと言って、自分が分からないもんだから、単純化して子ども(他者)に投げる。この場合、私という人間を介していて、私の中で単純化するという嘘を書いています。私を騙している側面もある。世界はそんなに簡単に単純化できるものじゃないんだと。世界は読み込まれるのを待っている非常に複雑なテクストですから、それをどう読んだんだということを真摯に書く。ちゃんと読んでくれたら分かるようにというのは何かというと、自分でもわけの分からない言葉は使わないでおこうというのを自分に課しました。であるから、この本は解ではなく問いであふれかえっている。困ったものになっている。
もう一つ、課したというか狙いとして考えたのは、三章立てになってるんですけど、各章にそれぞれ4つか5つぐらいのエッセイ(論文ではなく。エッセイにしとけば、何か許されるというか(笑)。それぐらいにしとかないと、あんまりギチギチにしたら書けなくなってしまう。まあ、不可抗力でそうなってしまうんですけど。)で、それぞれのエッセイは、単独でも読めるものにしました。例えば、グローバリズムに興味がある方なら、三章のここを読んでみようとか、自治体の財政問題に興味のある方は二章のこの節を読んでみようとか、それで十分読んでもらえるようなものにしよう、というアイデアを持ってこの本をつくりました。今のところ、感想としては、意味が分からないというのはいただいてないので、そのように読んでもらえるようにはなっているようです。
◎逆格差論のこと
僕は原稿をつくるのは好きなんですけど朗読するのが嫌で、しゃべるときも箇条書きのメモぐらいしかつくらなくて、書くときには考えながら書くので、結論があるようには書いてなくて、この本も案の定そうなってしまって、一章、二章、三章それぞれ思い入れありながら、今日は三章のあれ、今日は二章のという風にしながら1年もかかってずるずるやってきました。そのときはまだ、この本がどこに出ようとしているのかが分かっていませんでした。それが分かったのは、ほんとに最後のギリギリのころでした。
編集者の方に苦労してもらって、議員をしてたときに新報やタイムスに投稿したり、請われて4回連載のまとまったものを書いたりしてきたんですけど、そういう諸々をまとめてもらいゲラまで上がったあとです。もう、宮城康博がこの数年間書いてきたものの集大成みたいになってきたんですけど、僕は途中からちょっと思い悩んでしまって、実はこの本の本文の中で一番最後に書いたのは、岸本建男さんの話で、「逆格差論は死なず」(本では二章の最初にあるんですけど、書いた順番では一番最後)というエッセイですが、それを書いてやっと自分はこの本で何をしようとしていたのかが分かった気がしました。実は、自治のあり方をどう考えるのかというのが私の最大のテーマだったんですね。私は名護市が大好きなんですが、どこが大好きだという中に、「逆格差論」をやった名護市、あの市庁舎をつくった名護市というのが、自分の中に大切な要素として、これは自分が生まれたところがそういう場所なんだというのが誇りでもありましたし、そういうことがあって、岸本建男さんともお友達になっていろんな活動を一緒にしてきたんですけど…。
「逆格差論」というのは、簡単に言うと、1970年に1町4村が合併して名護市になるんですけど、72年に復帰することが既定スケジュールとしてありますから、日本政府は沖縄に対して何をしなければいけないかというので、長い年月ほったらかしてきたので、お金をかけて振興開発をしなくちゃいけない、格差是正をしなくちゃいけないというので、盛り上がっていた。沖縄も盛り上がっているし、国も盛り上がっている、民衆も盛り上げられているような状況だった。しかし、そうは言うが、この復帰は裏切られた。基地のない沖縄をというのが、当時の屋良朝苗主席が、復帰に当たって基地をなくしてくれという建議書を持って国会に向かい羽田に到着したときに、衆議院の特別委員会で強行採決される。沖縄の最後の声は届かないままに沖縄の復帰が国会で決められてしまう状況があった。そんな中で、70年に名護市が合併してどんな街にしていくんだというときに、いわゆる「格差是正」「開発信仰」ではない、と。本土に追いつけ、追い越せではなくて、名護市やヤンバルが持っている自然や暮らしの豊かさがある、と。経済の成長で失うものも多くあるのではないか。そうではなくて、自分たちの足元にあるものを大切に積み上げていって、豊かな暮らしをつくれるんではないのか。格差があるんだとしたら、経済の成長を追いかけることで、自然を破壊して、水俣病のようなものをつくり出してしまって、とてもじゃないが大変な状態になっている日本本土と比べてみたら、名護市、ヤンバルの方が豊かじゃないのか。格差は逆だと。それが「逆格差論」だったんですね。沖縄と本土の格差は実は逆なんじゃないか、精神の豊かさ、自然の豊かさで見たら沖縄の方が勝っているぞというのが「逆格差論」のテーゼの中にあるわけですが、そんな風なことをやっている名護市は相当、僕は面白いと思っていた。で、そのことに深くかかわって、名護市の職員にまでなってしまったのが、岸本建男氏なわけです。で、編集者に、建男さんのことを一言書いてくれないかと言われて、「逆格差論は死なず」という原稿を書いたわけです。
◎地方自治の本旨を求めて
で、私がこの本でやりたいと思ったのは、もう一度、地域の自治をどう積み戻せるのか。実は本の中でも端々で書いてますけど、96年までずっと名護市や北部広域市町村圏など役所と付き合って仕事をしてきて、その計画を全部なげうって、反対運動の「雄」みたいに思われて、まあその役割を引き受けて、選挙などとてもじゃないが僕の生涯の中にあるとは思ってなかったような事柄まで引き受けて今日まで来たわけですけど、何をしたかったのか。私、実は東村の総合計画なんかをつくったりとか街づくり等などについてはある種、仕事としてもやってきたこともあって、私がやりたかったのは、名護市の街づくりだと。街づくりのあり方として、こんな基地建設を引き受けて、基地建設による振興策とかいろんなもので街づくりなんてできるはずがない。私が勉強したり、80年代の時代の知見で見知ってきたことで言うと、原発をつくるところには、つくるときに特別の振興策、特別の予算が出ます。大きなアメとして受け入れるわけですけど、実は原発というのは10年も20年も経つと減価償却してしまいます。基地は償却しないんですよ。基地はある限り金は出続けるわけですが、原発は10年経つとその施設は減価償却してゼロになる。そうすると、その受け入れた自治体に金が入らなくなる。それで、何が起きるか。1号機は嫌々受け入れたけれど、2号機は誘致するわけです自治体は。これが振興策のあり方なんです。名護市が基地を受け入れて、基地とともに共生した未来なんてつくれるはずがない。これはトンデモ話ではなくて、人間の経験知というんですかね、集団的なね、この日本社会が持っている経験知ですよ。そんな事柄をやっちゃいけないと、僕は思っていますし、基地を受け入れた見返りの資金=振興策で街づくりを進めていく、いわゆる功利主義的に考えることは間違いだと思う。今でもそう思う。結局、そこです。街づくりです。どんな風にもう一度、「逆格差論」のようなあり方を沖縄が取り戻すことができるのか、つくり出す事ができるのか、たぶんそこしか出口はないはずなんだ。
私は97年から10数年、ほんとに人生を翻弄されましたけど、出口はそこしかないと確信している。もう一度、「逆格差論」のようなあり方を、本気で自分たちのものとして、地域づくりをしていかなくちゃいけない。自治のあり方を手放さないものにしていかなければ、沖縄は成り立たない。
市民投票の結果を、実際の行政の意思決定に反映できないのは自治ではない。単純なことで、市民投票はアンケートではなく主権者の意思決定なのだから。そのことにこだわり続けて、10年間を振り返り現在をみつめているのが「沖縄ラプソディ」なんだと思います。
ずっと沖縄は基地に翻弄されてきて、最近ではそんな議論も、もう議論にもならないほどですけど、1960年代から70年代にかけては、いわゆる自民党の方々、今でいう土建屋さんたち、保守系の方々は復帰反対だった。なぜなら、米軍の施政権下にあった方が、お金も高いし、復帰したらイモとはだしになると。復帰したら、またイモを食うような生活、はだしの生活になると、保守系の連中は反対していたんです。今となったら、逆ですよね。本土、日本政府の言うとおりにしてると我々は大変なことになっちゃうぞというのを、復帰の頃は保守系の人が言っていたんですよ。今は逆になっている。もう一度、ほんとに自治のあり方をどう取り戻すのかというのが、私たちにとって非常に重要な課題だろうと思っていて、最後の最後に、この本のサブタイトルを「<地方自治の本旨>を求めて」としました。

◎自治を考えるための資料
この本に付録が2つあって、一つは、「炭鉱のカナリアの歌声」というもので、これは島田懇談会事業とはどういうものかと。1995年当時、革新の方々も入った検討会をつくり進められていった振興事業。島田懇談会事業というのは何かというと、まあ宣撫工作みたいなもんなんですけど、公共事業というのは法律に則ってやるけど、島田懇談会事業は非公共事業なので法律に則らない、何やってもいいよという。これが今日、いろんな形で続いていますけど、何やってもいいよという非公共事業の嚆矢というか最初に出てきたのが島田懇事業で、これが自治体の自治とか、地域の自治とか、自治についての考え方を破壊する。自治体の仕事が(その成果の可否が)市場の手に委ねられる、自治がなくなるというのを雑誌に書いたのを再録した。
もう一つは、名護市の総合計画、先ほど言った「逆格差論」。72年に施政権が返還され、日本の国家の一員として、総合計画をどうつくるかということで、名護市も始めるんですが、その中に「逆格差論」があって、本土に追いつけ、追い越せでなく、格差は逆だというのがある。その総合計画の基本構想の第一章、第二章が、逆格差論とはどういうことなのかと書いている。それを付録として入れている。
先に話した、ゲラまで上がっていた、既出の私の原稿をまとめた付録はすべてボツにして、その二つを挿入してこの本はやっと出来上がりました。
◆浦島悦子さん
プロフィール:1948年、鹿児島県川内市に生まれる。90年から沖縄に住み、文筆活動を続ける。91年、「闇の彼方へ」で新沖縄文学賞佳作。「豊かなシマに基地はいらない」「辺野古 海のたたかい」などの著書がある。08年8月、「島の未来へ 沖縄・名護からのたより」(インパクト出版会)を刊行。

◇ ◇
◎辺野古三部作
私が沖縄に来たのが90年。康博さんは80年代に東京にいたそうですけど、私は70年代に7年ぐらい東京にいたんですね。この本(「島の未来へ」)を出せるようになったのは、インパクションという雑誌をやっている社長兼小使いみたいな人と、東京にいるころ、私も超零細な月刊誌の編集をやっていて、ある集会でたまたま隣同士で本を売っていたという関係で知り合いになりまして、彼はずっとそのころから30年ぐらい雑誌をつくり続け、隔月刊で自転車操業で。
で、この本の前、95年から、まあ辺野古三部作とか言ったりしてるんですけど、ちょうどそのインパクションに書いた連載を本にして3冊目なんですけど、一番最初は、95年の少女暴行事件に対する抗議集会がありましたね。大きな大会の前に、女性たちの集会があって、それに参加したあたりから本が始まっている。95年から2001年までがそれ(「豊かなシマに基地はいらない」)。この本の三分の一から後は、私が名護に住むようになってからの話。その後、2冊目(「辺野古 海のたたかい」)は2005年の夏に出したんですけど、ちょうどそのころ、私たちは辺野古の海上のやぐらに座り込んで、そこに防衛施設局の職員や作業をする人たちが来て、作業をさせろ、させないというのをやっていたのが中心。それと、康博さんたちと「市民アセスなご」というのをやっていて、環境アセスに対して市民の側からものを言っていこうというか、私たちの中では今のアセスは本当に環境に対する影響を評価するのにふさわしくないもので、市民の側からいいやり方を提案していこうというもので。そういうのも入れながら書いたのが2冊目ですね。 で、その後がこれ(「島の未来へ」)。
◎普天間-名護
私が名護に住み始めたのは、98年の4月から。名護市民投票のときには、私はまだ外からの応援する立場としてかかわりました。ちょうどそのころ、宜野湾の佐喜真美術館で働いていたんですね。佐喜真美術館はご承知のように普天間基地のところにあって、その普天間基地が返還される。でも、それが名護に行くらしいということで、宜野湾市の女性たちを中心にカマドゥーグァーたちの集いということで、自分たちはずっと普天間基地に苦しめられてきたけど、それを名護に押し付けるのは嫌だと。普天間がどんなひどい基地か、こんなの受け入れたらいけませんよというのを名護の人たちに伝えようということで、私も宜野湾で働いていたので、一緒に名護に通うようになったのが基地問題とのかかわりの初めなんですけど、もちろんその前に少女の事件があって、ひとごとではいられないというのはあったんですけど。
私自身は、いろいろありまして、沖縄に来て、そのときは基地問題はあまり意識してなかったんですけど、やっぱり暮らしていく中で、最初に住んだのが沖縄市で、ほんとに基地のすぐそばで。あと、子どもたち、自分の子どもが育つ環境が、とても荒れてるなというのを感じて。やっぱりこういう環境がどうしてこうなったんだろうと考えると、どうしても基地を避けて通れないというところで。
名護に行くようになって、ちょうど市民投票推進協議会ができて、最初に名護の市民会館で大きな集会があったんですけど、そのときにすごく感動したのが、まあ基地反対はもちろんだけど、さっき康博さんが言った「いい街をつくろう」というのが大きな柱としてあったというのに、とっても感動したんですね。やっぱり、名護の人たちが、ほんとに新しい歴史をここから開いていくんだなというのが、最初からそういうのがあったんですけど、すごいびっくりしました。
◎「初発」のエネルギー
で、そのまま、名護にかかわるようになって。名護市民投票の前に、97年1月に、辺野古の「命を守る会」ができて、97年の10月に、今私が所属している「二見以北10区の会」ができた。基地の地元とされる東海岸に2つの住民団体ができて、住民の立場から「基地はいらない」という声を挙げ始めたんですけど、そのときにたまたま、カマドゥーグァーたちの集いと、「二見以北10区の会」の女性部と言ってましたけど「ジャンヌ会」という、ジャンヌ・ダルクのジャンヌで、それからジュゴンのことをジャンというのでそれをかけて「ジャンヌ会」という会があって、それが一緒になって、名護の女性と宜野湾の女性が二人一組になって一戸ずつ回った。宜野湾の人は基地の実態を話して、こんなのを受け入れたら大変なことになりますよ、というのをやったんですね。今まで政治活動とか市民活動とか何もやったことがない人たちが、とにかく基地が来たら大変なことになるということで、市民投票にさえ勝てば基地は追い返せるというその一心で、その間、ほんとに子どもたちにもインスタントラーメン食べさせて、お父さんもお母さんも地域を回るというような、市民投票までの我慢だということで我慢させた。
そういう中で、夜遅く、召集がかかったんですよ。名護の、ヤンバルの人たちから。「助けてくれ」というほんとに悲鳴のような声で、私たちみんなに電話がかかってきて、それで夜から駆けつけたんですけど。それまでわりと感触がよかったと。ところが、市民投票をしてほしくない人たちからの反撃がすごくて、もう行く先々ですごい怒鳴りつけられたり、まったく空気が変わってきたと。このままでは負けるんじゃないかと、何とか来てほしい、ということで、そのころは瀬嵩の真志喜トミさん宅の二階で、自分たちがどんなひどい対応をされたかというのをジャンヌ会の女性たちが涙ながらに語るのを聞いて、明日からどうしようかという話をしたのを覚えています。
でも、そんなこんなでも、私はまだそのとき名護市民ではなかったけど、市民投票に勝ったというのがほんとに嬉しかったです。ところが、3日後に受け入れ表明ということで。あの落差、ほんとに天国から地獄に落とされたというあの落差というのは、今までずっと尾を引いていると私は思っています。私はあのときに、もちろん東海岸だけじゃなくて名護の西側の人たちも含めて、ほんとにみんな血と汗と涙の結晶だと思うんですけど、そういう中で一人ひとりが頑張ったと思うんですけど、その人たちがどんな思いで今の状況を感じながら、思いながら暮らしているのかな、っていうのがずっと気になっているんですね。だから、その人たちが話してくれるか分からないんだけれど、もし機会があれば聞き歩きておきたいなという思いがあります。
◎名護に暮らして
で、私は、その前から、沖縄に来る頃から山歩きをしていまして、というのはその前に奄美大島でとても田舎というか陸の孤島みたいな中に住んでいたので、小さい子ども、赤ん坊を連れてきて、女手一つで育てていくには、ほんとは田舎に住みたいんだけど、仕事がないというのもあって中部に住んだんですけど、とても街の暮らしが身に馴染まないということがあって、たまたま山歩きに誘われてはまってしまったんですけど、ヤンバルの森をあちこち歩くようになると、あまりにも森が壊されていくのを目の当たりにして、どうしても黙って見ていられないということで、同じような思いの人たちと山原の山を守る連絡会というのをつくって、事務局をやっていました。
で、どうしてもヤンバルに住みたいというのがあったんですけど、自然保護団体の事務局というのが新聞に載ったりしてくると、嫌がられるんですね。あんたが来たら開発できなくなると。そういう中で、市民投票のときに知り合った東恩納琢磨さんが家を探してくれて、それで10区に引っ越してきたのが98年3月で。ちょうど市長選で岸本さんが市長になった後。あのときはまだ、岸本さんは、基地問題は市民投票で決着がついてるから、と言ってたし、まだそんなに大きな動きはなかったので、私はわりとのんびりとした気持ちで、「ヤンバルでのんびり小説でも書きたいな」とか思って引っ越してきたんですけど、住んでみるといろいろなことがあって、結局、市民投票のときの盛り上がりというのが、自分たちがあれだけ頑張って、勝ったのに、裏切られて、残念というかな。そこから一人減り、二人減りして。
で、二見以北10区には97年ぐらいから、地域振興補助金というのが下りるようになって。10の集落があるんですけど、そこ全体で6000万円。毎年ね。名護市を通して支給なんですけど、人口に応じてスライドされて、私がいる三原という集落は少し人口が多いので、年間840~850万円もらってるんですけど、それが部落の会計に入って、部落のいろんな行事とか役員の手当てとか、自由に使っていいお金ですから、使われているんですね。で、やっぱりそういうものが入ってくるとか、公民館が防衛庁予算でどんどん新しくなるとか、あるいは陳情とか要望とが、私の地域はどんどん過疎が進んでいるにもかかわらず、病院もなかったんですけど、ずっと要求してもかなわなかったのが、防衛庁予算でできるとかで。当初、反対運動の先頭に立っていた区長さんたちが全部引いていく中で、だんだん10区の会の活動も下火になっていきました。まだでも、最初の本(「豊かな島に…」)の頃は、住民運動の初々しさというかな、みんなが生き生きと活動していた頃の残り香がまだあって、私、この本が自分の本だけどすごく好きなんですね。そういう住民運動のほんとに初期の頃というか、みんなが生き生きと自発的に動いていたときの感じがまだ残っていて。でも、だんだん人がいなくなって、結局、私みたいなよそ者がいま共同代表やっていますけど。

◎私の書き方
私が連載を書き続けてきたというのは、一つには、その出版社が、書きたいものを書かせてくれるというのと、たまったら本にしてくれるので。で、私の文章というのは、みんな超主観的というか。運動にかかわったりすると、何かの報告を書くとかいうときに、客観的に書かないといけないみたいなプレッシャーがあって、それこそ世界情勢からじゃないけど、そう書かないといけない場合もあるんですけど、ほんとに自分の肌で感じたこと、肌で思ったことをそのまま書くというのが私は自分の性にあっているので、そういう風に書かせてくれるところだったので続けられたんですけど、ただやっぱり、どうしても、誰からも強制されたわけではないんですけど、運動の記録みたいな感じになってしまって。
「辺野古」と言われると、私たちは抵抗があるんですね。自分が住んでいるところは辺野古じゃないし、辺野古というのは隣の地域であって、うちの地域だと思ってないので。出版社の人が言ってたけど、「辺野古っていうのは、誰も分からない。これ、読めないよ」って(笑)。
いまもまだ連載を続けているんですけど、いまは連載の体裁を変えて、運動の報告は、もう詰まらないというか私自身がいま運動にどっぷりはまってなくていろんなことをやってるので。結局、私は自分の体験したことしか書けない人なので、もし次もやるとしたらだいぶ違うものを。もちろん基地の問題も、自分の地域の問題というか、基地問題というのはすべてにかかってきていると思っています。それは沖縄で生活している人には普通のことだと思うんですけど、とくに私たちのように問題が降りかかってきている地域というのは、いつもなんというか、基地問題というのは厚い雲のようにずっと頭の上を全部覆っていて、その下で経済があったり、政治があったり、文化があったり、いろいろしてるって感じで、すべてを歪めているという感じがすごくひしひしとしますね。
で、いま私は自分の住んでいる部落の、ものすごい独裁というかヒトラーみたいな体制があって、それもやっぱりそういう風に基地絡みのお金によって歪めているというのがあるし、無意識のうちに、それを受けている人々の精神まで歪めてきているなというのを、うまく表現できないんだけど、なにかすごく肌で感じるんですね。だから、基地被害っていろんな被害があるんだけど、それが一番大きいというか深刻じゃないかと思う。だから、もし基地がなくなった場合、そこから立ち直るというのは、とても時間がかかるんだろうなとは思います。ただ、救いは、やっぱりこれではいけないよねと思う人たちも増えてきているということがあって。
◎「運動」について
運動というのは、生き物だと思うんですね。生まれて、成長して、年とって、死んでいくというのは人間と一緒。やっぱり生まれて成長していく場面というのはほんとに生き生きしてるし、見てても楽しいというのがあるんですけど、それがだんだんいろんな人たちが入ってきたり、またいろんなあの、趣味の運動ならそんなことはないんだけど、ある意味、基地問題というのは国策と闘っているという側面があるので、お金による誘惑とかいろんなのが来て、そういう中でどうしても、いろんな形で歪みも出てくるし、だから病気にもなるし怪我もするしという中で、本来の初心と全然違うところに行ってしまうというのは、私はそれは悪いとかいいとかいうことではなくて、もちろん気がつく中でそれなりに話し合ったり、最初から気がついた人もいたりということはあるんだけど、それでもなかなか処理できないというのがあって、だんだん怪我や病気がひどくなっていくというのは、私はそれは自然なこと、と思うようになりました(笑)。今はね、だいぶ年をとったということもあって、もう10何年も経ってきたら、そういう風に思わないとやっていけないということもあるんだけど。だから、今も、外からどう思われているか分からないですけど、辺野古で環境影響調査が行われていて、それに対する阻止行動とか抗議行動とか続いてますけど、いろんな矛盾がいっぱい噴き出しています。その中で、やっぱりおかしいじゃないかという声も挙がったりするんだけど、組織というか労働組合とか政党の人たちもずっとかかわって来てるし、それから個人でかかわってくる人たちの間の軋轢というかな、食い違いみないなものは常にあって、今もあるんですけど、でもやっぱり、そういうのがありつつ、まあ一応話し合える場がある。それは個人の人たちが、今まで運動を続けるためには、少しぐらいのことには目をつぶってリーダーに従わなければいけない、という風にやってきたのが、もうそれでは立ち行かない、やっぱりおかしいと、自分たちは道具ではないんだよということをきちっと言い始めたのは、私はとてもいいことだと思います。
私たちは、いろんな体験をして、自分は自分なりに頑張って、自分は地面を這いずる虫みたいなものだと思っているんですけど、そういう中で蓄積していくことはあるし、私は自分が体験したことを記録を残すことによって、次の世代に、良かったことも悪かったことも学んで、そこからもし得るものがあれば吸収してくれるだろうし、こういうことはやってはいけないよとか、学んでくれればすごくよくて。
いま市民投票からやってきた人たちは、年もとって頭も固くなって、この人たちを変えようと思ってもすごくやっぱり時間がかかるから(笑)、だから、この人たちはもう終わり、というか役割は終わり。で、次の人たちに何を託すかということじゃないかな、と最近思うんですね。だから、そのためにも、自分たちのよかったことも、間違いも含めて、残していくというのが大事だと思うし、それぐらいが私の役割かなと思うんです。
報告:佐藤拓
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